2011年01月24日

深イイ話(ウルトラ−スーパー自分くん)

深イイ話の全体像

私が語ってきた深イイ話をここで見やすくまとめてみました。仕事で悩んだ時,勉強で行き詰まったとき,どうやって生きていいか困ったとき,目に入ったエントリを読んでみると,何かヒントになるかもしれませんよ。わーい(嬉しい顔)

人にはウルトラスーパーな自分があり,その自分を意識する,あるいは出せるようにすると素晴らしい人生が待ってます,成功していくというのがこの深イイ話しの主張です。

眠っている,本当の素晴らしい自分がいる可能性があるという話しとして「はこ」の話しから,この深イイ話しは始まりました。

はこ

そして「ウルトラスーパー自分」が出せるための方法を簡単に以下紹介しました。

ドリーム
いまやろう(1)
いまやろう(2)
究極の状態
感動する
人に優しくする
人に優しくする(ディズニーランド編)
評価は自分でつくる
感謝する

ウルトラスーパーな自分とは何か,本当にあるのか,それを考察したのが以下のエントリです。

ウルトラスーパー自分くはいるの?
心理学からウルトラスーパー自分くん
宝の珠

それなのにウルトラスーパー自分くんを失ってしまう。それを考えたのがこれ。

I Lost Myself!

以上が深イイ話(ウルトラスーパー自分くん)のエッセンスです。ここから詳細によりよく人生を生きるためにどのようにウルトラスーパー自分くんを出していくか,語ってきました。

まず,人生は以下のような構図になっていることを示しました。(行動がすべて

=====自分=====    ====環境===
‖感情→思考→言葉→行動‖←→‖出来事や人間関係‖
============    ========      


ウルトラスーパーな自分を出す方法として、(1)感情を見つける、(2)行動する、(3)言葉を使う、(4)思考を変える、を提案しました。

(1)自分の感情を見つける。

ウルトラスーパー自分くんと感情
感情から逃げている!?(1)
感情から逃げている!?(2)
感情を復活させる
感じる自分を受け入れる
感情を確認する(1)
感情を確認する(2)
感情の奥の欲求を意識する
感情を開放すれば前向きになれる

(2)行動する。

行動は自分を変える
行動すると自信になる
行動するから面白くなる
行動と結果
どんな行動がいいのか
感謝を行動にする
笑顔になる
社会に向けて行動する
行動を記録する
読書する
制約の中で一心不乱に行動する
行動を続ける


(3)言葉を使う。

言うは易く行うは難し
言葉の力
言葉は人生を変える
自分でいい言葉を使う
語彙力を増やす
言葉は現在形を使う
自分を「開く」言葉
なりたい自分を書く
自分と人をほめる


(4)思考を変える。

人生は「思いこみ」から作られている!?
自分は変われないと思い込んでいる?
思考は現実化している
「思いこみ」が感情を作っている
ABCで考える
「どうせ」という思い込みをとろう
「ねばならない」「べき」思考
自分の「文章記述」を書き換える

以上の手段で、ウルトラスーパー自分くんがみつかります。ただやはり感情の面で注意するべきことがあります。

気をつけるべき感情
犠牲感を使命感にかえる
罪悪感を感謝にかえる
嫉妬感を羨望にかえる

これまで、自分が主体的になる,ウルトラスーパーな自分になってウルトラスーパーな自分にふさわしい環境を作り出し,最高の人生,成功する人生を歩むことができると述べてきました。

次に,自分の周りで起きる出来事,人間関係という環境について考えてみましょう。

自分と環境
ほんとは一人でもいいと思う
人間関係がある理由

そして少しでも生きやすくなるために人間関係を良くするちょっとした工夫を紹介します。

まずは聞くことから
聞き方のテクニック
受容する聞き方
共感するとは
意図を理解する
人は説得できないもの
誠実でありたい

これで深いい話はほぼ終わったわけですが、最後の結論としてウルトラ−スーパー自分くんの正体について考えていきたいと思っています。(これは近日,再開予定。)

ちなみに,なぜウルトラスーパー自分くんの話をするようになったか裏話を。

ウルトラスーパー自分くん裏話

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2010年07月07日

深イイ話しの結論にむけて

さて,約1年半毎週一回の更新をペースに,「ウルトラスーパーな自分くん」の話しをしてきました。

基本的にいままで言いたかったのは

(1)ウルトラスーパーな自分くん,というのが自分の中にある。

(2)それを引き出すためには,行動したり,感謝したりする方法がある。

(3)もっと根本的には
  感情をみつめる
  行動する
  言葉を使う
  思考を変える
  自分の感情を感じる
という方法がある。

(4)自分の環境も受け入れ,人間関係をも変える方法がある。

ということです。

ここから結論に入っていくわけですが,最後のまとめ方について思案中ですので,毎週水曜日の更新はとりあえずお休みにしたいと思います。

しばらくお待ちくださいませ<(_ _)>
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2010年06月30日

誠実でありたい。


人には誠実でありたいものです。誠実な人には誠実な人が集まってきます。誠実さは人間関係の基礎をなします。誠実さを持つことで人から信頼され,人との関係が良好になります。

でもよくいうけど「誠実」って何でしょうか。今日は自分への戒めを含めて考えてみたいと思います。

誠実さについてコヴィー(1996)は,誠実は正直という概念を含んでいて,正直とは真実を語ることと言っています。つまり人に対して正直であって,うそを言わない,そして言っていることと自分の行動が一致しているのが正直だということです。あるいは約束して守らないというのは言葉と行動が一致していません。約束を守って人からの期待を守ること,これが正直に生きることであり,誠実であるということです。

ですから誠実について一つめは,

「約束を守る」

ということです。約束が守れない人はいつも口からはでまかせを言っていると思われてしまいます。10時に待ち合わせを約束していて,その時間が守れないというのは間違いなく正直でなく誠実ではないです。約束時間を守るのは誠実さを身につける第一歩だと言えるでしょう。

ただ約束でも「今度飲みに行こうね」「うん」というのは社交辞令の種類で挨拶に近いものもあります。これは例外です。(でも本当の時もあるので周りの空気を読むのが大切。)

できない約束はしないことと,時間を厳守する,これだけで誠実さへの第一歩になります。

次の誠実さは,

「人の悪口を言わない」

ということです。職場で同僚と上司の悪口を言っているとしましょう。その時には同僚も楽しんでいると思いますが,度を超えた悪口を続けているとその同僚も一歩引いてきます。ていうかむしろ「こいつ,人の悪口ばっかりいっているけど,俺のいないところで俺の悪口いっているんじゃないかな」という不安を誘います。

もし職場でその同僚と仕事のやり方が対立したとしましょう。その同僚は間違いなくあなたは人にその同僚の悪口を言っていると思うことでしょう。仕事が対立するという職場でよくあるケースなのに,普段上司の悪口をいっているばっかりにその同僚とも完全にうまくいかないことになってしまいます。

つまりいつも人の悪口を言っているとこの人とつきあっていると「いつか私の悪口いわれちゃうんじゃないかな」という不安にさせます。こんな不安をさせるあなたを人は「この人いい人,誠実!」なんて思うことは絶対ありません。

とはいえ,人との会話の中で「他人の話題」を避けることは難しいです。できるだけ聞く側に回るとして,あまり賛同も否定もしないという態度が誠実さを失わない最良の策になります。

あるいは,話す必要があれば,できるだけ「人の行動の事実」だけを触れるのがいいと思います。

例えば

「あいつ仕事遅いよね〜あんな遅いやつみたことない。どう思う?」
「営業にでかける時に,さあ行こうかというと5分待ってということは多いね。この間のプロジェクトの企画書では,上司に言われた一週間で提出していたよ」

人の悪口の話題には,極力肯定否定を避けることが大事です。上の例では,相手が期待している同意にやや合わせた事実をいい,その後やんわりと反対の事実を紹介しています。

これは,自分も悪口を言う側に立たないように気をつけつつ,相手の気も害さないという高度なテクニックが必要な場合といえるでしょう。

とはいえ,これも誠実になるいい方法ではなく,誠実さを失わないための方策であるということに注意する必要があります。

人は自分の「思いこみ」(フレームワーク)で話を聞きます。事実を伝えたとしても,その人のフィルターにかかると,悪口ととってしまう可能性もあるからです。

例えば

「最近,彼いつも一人だよね。最近みんなから嫌われたのかな」
「昨日の三限のあと,一人でたばこ吸っているのみかけたよ」
「やっぱり,彼,絶対なんかやったんだよ。あいつ変だから嫌われてるんだよ」

ということは多々あります。

いずれにせよ,悪口の多い人と付き合うのは危険でもあります。自分の誠実さを奪う可能性もありますので(汗)

最近,「約束を守って」「人のいい面」を話していますか?立ち止まって振り返ってみましょう。(→私も書きながら反省しているところが多々あります。)
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2010年06月16日

人は説得できないもの

人というのは自分が正しい,あるいはそこまで確信がないにしても,このやり方がいいと思って生きているものです。もちろん人ですから,今日1限寝過ごして出席できなかったな〜なんて反省もしています。人は毎日自分なりにいいと思ったことを選択しながら生きており,たまにその選択に後悔・反省しながら生きているということになります。簡単にいうと,自分なりの向上心のもと前向きに生きているけど,たまには自分の決めたように行動できないなのさ,っていう感じの毎日になっています。

でも友人にしても,周りの人にしても,こっちからみると明らかに「損した生き方してるな〜」とか「授業出てこないとあいつ単位とれないぞ」とか「こんな考えしてると将来損するよ」などと心配することがあります。

そうすると,こっちは心配のあまり

「ね〜その考え方やめたら」
「朝きちんと出席した方がいいよ」

などと言いたくなります。中のよい友人だと相手も「話を聞いてくれます」。でも納得して行動を考えたり,思考を変えたりするかというとなかなかそんなことはありません。

そうすると変わらない友人にいらいらしたりします。そこで何度もしつこく

「お前,変わらないとだめだよ」

なんて強い口調で説得したくなります。でも残念ですが,きつい口調で話しても相手は変わりません。

人は自分がそれなりに正しい,いいと判断して生きているからです。注意は可能ですが,説得は不可能なのが他人なのです。

とくに強い口調で説得に力を入れると人は反発します。作用反作用の法則です。

例えば,よくゼミを休むゼミ生に私が強い口調で

「ゼミ来いよ」

と凄んだとします。もちろん表面では「わかりました」と答えますが,本心では「いかにゼミにこれなかったか」という理由を探し始めます。動物としての防衛本能です。いろいろ理由を探していくうちに本当にその理由だったというふうになってきます。本当はゼミに来れるのに来れないのは本当にこんな理由があったからだと思い込むようになります。これを心理学では「認知不協和理論」といいます。不都合なことがあると,その不都合を受け入れるように人間は考えを変えていってしまうものです。

よくない行動に考えを合わせてしまうということが無意識に行われます。(行動が思考を支配してしまうというケースです。)つまり間違えていたと自分で思っていたとしても,人に指摘されることによって,正当化しはじめてしまうのです。

ですから相手を説得しようと話をするのは,人間関係がうまくいくどころか,相手が意固地になるだけという結果になります。

昔の人はこれを「太陽と北風」という童話で説明しています。

相手を変える方法はただ一つ。こっちが指摘してやることではなく,自分が間違えているんではないかと気づかせること,そして説得ではなく「納得」してもらうことです。

気づかせる方法は何でしょうか。それはやはり「聞く」ことです。人は話しているうちに自分でやばいなぁ,変わらないとなぁ,と反省し,気づくものです。

ただし熱い思いを語って,その時は正当化して反発しても,あとから相手が考えをあらためることはよくあります。ですので聞くことがすべてではありません。でも「聞く」ということは相手を納得させる上で有効な手段であることは間違いないと思います。

友だちを変えたいと思いましたか。その友だちがなぜその行動をとるのか,理由を聞いてあげてみましょう。意外にその友だちは自分の間違いに気づくもんですよ^^
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2010年06月09日

意図を理解する

共感,ともに同じ感情を味あうというのは人間関係が密接になる上で非常に重要な過程だと思います。自分がつるむ友人が同じような人間なのは,感情を味わう部分が似ているということ,あるいは感じる対象が似ているということだと思います。

自分がお金持ちの彼氏と付き合いたいと思ったとしても,「感情」の方向が違うとなかなか合いません。一方,趣味や行動が違うとしても,物事に対してどのように感じるか,という感情のベクトルがあえば,付き合う関係はうまくいきます。

いわゆる「類は友を呼ぶ」というやつです。常に否定的に出来事をとらえて悶々としやすい人には同じような友人が寄ってきます。比較的明るく物事を感じる人には,同じように明るい人が集まってきます。これが感情ベクトルの作用です。

ちょっと話しがずれました。

まったく感情ベクトルが違う人とどのように付き合えばいいでしょうか?つまりまったく共感できない人とどのように付き合えばいいんでしょうか?

この共感できない人との付き合い方について,野口(2008)はヒントを与えてくれています。人の発言や行動の背景には,「喜びを得たい」「苦しみを避けたい」のどちらかの意図しかないようです。

母「あんた,なにこんな成績とってきて!そんなんじゃいい学校いけないよ。」

上司「おまえ,なんだこんな営業で。他のやつをみてみろ!もっと気合いいれろよ。」

こんな発言を毎回されると,その人に共感することはできません。むしろ反発感が出ます。その反感が顔に表れ,ますます相手をいらいらさせて,小言を言われる・・・というふうに悪循環になってしまいます。

人間関係を少しでもよくするためには,あるいは相手との関係を少しでもよくするためには,感情ベクトルを同じにする必要があります。でもこの上記のような場合は,感情ベクトルを同じ方向にして共感することはできません。

このとき,相手の感情ベクトルの向いている方向を理解する,という態度が有効です。それが野口(2008)で言う二つの「意図を理解する」ことになります。

上の例でいうと,

お母さんが小言をいうのは,息子が悪い成績をとることによって世間に顔向けできない,恥ずかしい,という自分の感情が苦しむことを避けたい,としている可能性があります。

あるいは,いい成績をとらしてやりたい,そうすれば私みたいに苦労せずにいい人生が歩めるはずだから,息子の成功は私の成功,いい暮らしを実現してもらいたい,といった自分の感情が喜びを求めたいがために,そのような発言になった可能性があります。

上司のケースでは,同じように「こいつが営業できないと自分が上司の監督管理責任を問われる,そんなことになったら出世がやばい」といった将来への不安,そんなことになったら自分は苦しむ,それを避けたいという表れでこのような発言になった可能性があります。

反対に,「こいつが営業で伸びれば,課全体が盛り上がる,そうすれば皆がハッピーになれるなぁ」といった喜びを求める気持ちから,そのような発言になったのかもしれません。

結局人の発言の裏には,「喜びを得たい」「苦しみを避けたい」のどちらかの意図しかないのかもしれません。

読んでいると「人は自分勝手だな」と思われるかもしれません。しかしそのような意図をもつのが人間として自然です。とくに人は苦しみの感情を避けたい,苦しみに対する恐れを持っています。それを避けるために,自分にとっていやな発言につながったりします。

そのような意図をもつものだと理解できれば,相手を受け入れられます。

共感できなくても,「相手の意図を理解する」。この作業だけでも人にやさしくなります。さて,今日の親の小言から,親の意図を理解できましたか?(笑)

<参考文献>
野口嘉則(2008)『心眼力 -柔らかく燃えて生きる30の智恵- (CD付)』サンマーク出版
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2010年06月02日

共感するとは


人は感情をもつ生き物です。どんなに勉強して論理的になってきたとしても,自分の感情を消すことはできません。そして人は自分の感情と相手の感情が共鳴したとき,相手に親近感をもちます。人間関係が一層よくなるのはまさにこの感情の「共鳴」によるといっていいでしょう。

コヴィー博士の『七つの習慣』,野口嘉則さんの『心眼力』でも共感の重要性が語られています。コヴィー(1996,p.372)の例を見てみましょう。

息子「父さん,学校なんてもういやだよ」
父親「学校に行きたくなくて,なんだかイライラしているようだね。」
息子「そうなんだ。全く現実味がないし,役に立たないんだ。」
父親「そうか,学校は価値がないと思っているんだな。」
・・・

と話が続いていきます。もう一つの例を見てみましょう。

息子「父さん,学校なんてもういやだよ」
父親「そんなこというもんじゃない。学校に行くべきだ。」
・・・

この例は,父親が息子の言うことを否定し,「アドバイス」しています。これでは感情の共感は一切おきていません。息子もこの父親の発言のあとには何も言いたくなくなります。ところが最初の例を見てみると,息子が学校に行きたくないといったときに,父親は

「学校に行きたくなくて,なんだかイライラしているようだね」

と学校に行きたくない,という事実を繰り返し,イライラという相手の感情を感じようとしています。これが共感する態度になります。このケースでいうと息子は相手が感情を受け入れてくれたことで非常に話しやすくなっています。

このように人は自分の感情を共感してくれることによって相手を信頼し,好きになっていきます。みなさんもこんな例は感じたことがあると思います。自分の感情を受け入れてもらえずに親に話してもしょうがいないやというふうになったことはあるでしょう。

私たちは中学時代の多感な成長期を越えると,自分と相手の「境」をはっきり意識するようになります。つまり自我が確立してきます。自我の確立は相手の感情に振り回されない状況を確立することにもつながります。その一方で自我がありながらも相手の感情に呑み込まれてしまうこともあります。相手がイライラしているときに,自分も不機嫌になってしまうというようなケースです。これは自分と相手の「境」が決壊してしまい,相手の感情が流れ込んでしまった状態です。

上の例でみると,父親は子供の学校に行きたくないというイライラが映って,そのイライラを相手にぶつけています。これが「境」がなくなった状態です。父親も人の子ですからたまにこういう状態になります。

人は成長するにつれ,人との「境」をしっかりもつことができるようになります。そうすると共感がしやすくなります。

逆に言えば,相手の心に共感しようという態度は自分の心を成熟させるということにもつながります。話をしている相手の感情を想像し,自分を持ちながらも相手の感情を感じていく,こうすることによって相手はあなたを信頼するようにもなり,自分も感情に,とくにネガティブな感情に振り回されない心に成長していきます。

とはいえ,人間ですから自分が感情の波に踊らされているときには相手の感情に共感することができません。この場合,まずウルトラスーパー自分くんを自分で想像して,感情的になっているもう一人の自分の感情を受け入れるイメージをもったりしながら感情のやり場を自分で受け止めていくようにするといいでしょう。自分がイライラしているときはその場を離れて自分の心が落ち着くのを待つのもひとつかもしれません。

人は自分の感情に余裕があって人の感情を受け入れることができます。

ところが人の話ではどうしても「共感できないとき」というのもあります。

このときは無理に共感しようと自分を追い込むと逆効果になります。ランニングでいう伴走者の役割をイメージしながら聞いていくという態度をとるといいでしょう。つまり相手の話に肯定も否定もせず,そばにいながらペースを合わせて耳に入れていく,そんなイメージです。

共感,難しいですが自分の人間性を向上させることにもなります。

さっそく相手の話を聞きながら相手の感情を推察してみましょう。そして自分の心が相手の感情に引き込まれているか,それとも自分は自分として存在しているか,冷静に見つめながら相手の話を聞いてみましょう。自分を自分として存在させながら相手の感情に合わせることができれば,人間関係はぐっと深まります。
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2010年05月26日

受容する聞き方

人は本質的に話をしたい動物です。他の動物と違う大きな点は,自分の話を人に伝える,という行為です。

話をしたい人が二人集まって,会話をはじめるとどうなるでしょうか?こういうことがおきます。

相手「昨日,部活の練習のときに先輩から,おまえもう少し練習したら,っていわれてさ」
自分「そんな先輩無視すればいいんだよ。」

自分の発言を注目してください。ここでは「アドバイス」をしています。相手は先輩から言われたことを伝えていますが,あなたにアドバイスを求めていることはありません。でも自分の発言では,自分ならこうするという価値観にもとづいたアドバイスの内容が入っています。

このように私たちは相手の話を聞きながらも,それを受け入れる前に,無意識的に「どうアドバイスするか」ということを考えています。

次にこんなこともあります。

相手「この間,就職面接,やたら地方勤務の話を進めてくるんだよね〜,俺,地元から通える範囲がいいのにさ」
自分「え?いいじゃん,いろいろ地方いけて」

ここでの自分の発言は,地方勤務はいいという自分の「評価」を下しています。相手は地元から通える会社を探していて,それは彼の地元がいいという判断が入っています。でも彼の発言を肯定することなく,自分の評価を相手に伝えていることになっています。

このように私たちは相手の話を聞きながら,実は頭の中に浮かんでくる自分の「評価」が気になって,それをつい相手に伝えてしまうということをよくしてしまいます。

以上二つの事例からいえるのは,人は話を聞くふりをしているだけで,つぎにどのようなアドバイスをするか,どのような評価をしているか,自分の考えを相手に伝えたいということで頭がいっぱいになっているということです。あるいは人の話を聞きながら自分の話の準備をしているといっても過言ではありません。人は話を聞いてもらいたいというのが素直な欲求です。あなたのアドバイスや評価を求めているのではなく,まず自分の考えや思いをあなたに伝えたいのです。

相手の話を聞く,受けとめる聞き方は

自分の頭に浮かんでくるさまざまな雑念を消して,相手の話に一つ一つうなずいていく

ということです。とくに相手が悩んでいるときには,この方法が有効です。相手も自分の感じていること,思っていることをすべて吐き出すことができるので,悩みがすっきりします。

もちろん中には相手が変な話をしているときもあります。あきらかにその考え方おかしいでしょ,そんな考えしてるから悩むんじゃない?といった自分の評価が頭に浮かんでくるかもしれません。でもそれを押さえて聞いていくことが大事です。人は話していくうちに自分の問題や悩みがクリアになってきて自然に正しい考え方にもどってくるようになっているので。

ということで演習です(笑)

人の話を聞きながら,自分がどんなアドバイスをしようか,どんな評価をくだしているか,自分の頭の中をチェックしてみましょう。意外にたくさんのアドバイスや評価が浮かんでくることに気がつきます。
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2010年05月19日

聞き方のテクニック

人の話を聞くことは大切です。でも聞く側になるというのはなかなかできません。また話の内容についていけなかったり興味がなかったり同感できなかったりすると話に集中できません。

また相槌を打っているのに,「聞いているの?」と言われたりすると,へこみます。聞くのが苦手あるいは聞き方ができていない人には少し聞くテクニックを身につける方がいいかもしれません。そこで今回は「聞き方」について紹介したいと思います。

(1)相手の話の単語を繰り返す。

相手「昨日のキムタクのドラマでさー,キムタクのあのセリフちょよかったよね〜」
自分「あのセリフね」
相手「そうそう,あんなセリフ使ってみれば,女にもてるかな〜」

相手の話していることの中で,重要なキーワードを繰り返します。ここではキムタクのセリフが話のネタとして振られているので,その「セリフ」という言葉に反応して,さりげなく繰り返します。そうすると相手は話を促される感じになるので,「こいつ聞いてくれてるんだな〜」とうれしくなります。

このように相手の話の単語をさりげなく,繰り返す,というのは話に相槌をうつ重要なテクニックです。

(2)相手の話の内容を言い換えてみる。

相手「この間マックにいったらさー,店員があんまり慣れていない女の子で注文をとるのにすっごい時間がかかってさー」
自分「新人ってこと?」
相手「そう,そんな感じ。まだ高校生っていうのもあるのかなー,一つの注文で二回聞いてくるからうんざりしたよ。」

相手が話している内容は,「慣れない店員」です。「慣れない」ということをここでは「新人?」と別の言葉で言い換えています。この言い換えにより,話をする側は自分の話がどこまで伝わっているか確認できますし,「新人」かどうかよりも自分の話の確認がとれているので,聞いてもらっている感がでます。

このように相手の話の中身を違う言葉で,言い換える,というのはこちらも相手の話を理解するのに役立ちますし,相手も自分の話を聞いてもらっているかどうか確認できるので,二人の会話が深くなっていきます。

(3)相手が感じたことを推測してみる。

相手「昨日,彼女が待ち合わせに遅刻してきてさー,30分もアルタ前で待たされんだよね。」
自分「足痛くなりそう。」
相手「うん,それに暇で暇で,だんだん腹立ってくるし。」

相手が待ち合わせでずいぶんと待ちぼうけくらわされたという話ですので,その時の感情を自分ならどう感じるか,その感じを相手と共有します。相手が感じたことを推測して言えれば,人は自分のことがわかってくれているという安心感からより一層話ししやすいと感じるようになります。

このように相手の感情を察して共有する作業は,人と仲良くなる上で欠かせないものです。

ただこの方法は,相手の感情にマッチしたとしても否定的感情の場合,相手が「いやちがうよ」と反射的に否定することもあります。人によっては否定的感情を再度味わうのを無意識的に避けるので,そのようなことがあった場合,その人にはあまり使わない方がいいかもしれません。あるいは肯定的感情のみに使うようにした方がいいように思います。つまり否定的感情を感じたんだろうけど,それには共感せずに嬉しいこと,楽しいことに感情の焦点を合わせるというのもいいでしょう。

とはいえ,たま〜にですが,この方法が通じない人がいます。これは成長の過程で感情を押し殺してきた結果自分の感情をつかみ切れていない可能性があります。この場合は,無理に感情をあててあげることは逆効果になります。

ということで,人の話を聞くテクニックでした。(1)ができるだけでもずいぶんと違いますよ。
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2010年05月12日

まずは聞くことから

人に好かれる人,というのは,間違いなく「聞き上手」です。

人は本質的に話し好きです。自分が感じたこと,経験したことを人に話したくてうずうずしています。話したくて話したくてしょうがないのが人間です。とはいえ,人によっては人見知りをするとか,嫌われたらどうしようとか,バカだと思われないかな,等々の恐怖感で話すことをためらう人はいますが,心の奥底では話したい,聞いてもらいたいという欲求をもっています。

となると自分の話を聞いてくれる人はいい人という構図ができあがります。自分でも気がつかないけど,考えてみると「あの人」が好き,会うと安心感がある,ほっとするという人がいますが,間違いなく自分の話を聞いてもらっている人です。

また人間関係にあんまりわずらわされない人も「聞き上手」です。

「口は禍の元」といいます。自分からいろんな話しをすることによってさまざまな面倒なことを引き起こします。人間関係に困ったりする人は,余計な事言わない方がいいのに,といったことが多々あります。

したがって人間関係に困らないためには人の話を聞くという姿勢が大事になります。あの人,人から好かれて良いな,という人を観察してみましょう。もちろん面白い話しをしていますが,基本は聞き上手だったりします。

話すのをやめようということではありませんよ。人との会話で気をつけるべきは以下の公式です。

話す:聞く=2:8

です。よく言われるものですが,自分の心がけとして話しをするのは2割程度にして,8割方は聞き手に回りましょう,という姿勢です。正確にそうしろ,というのではなく,心がけとして自分から話すのは2割程度にということにちょっと気をくばってみましょう。

たまにこういう人がいます。

相手「昨日,○○のショッピングモールに行ってさー,○○の服を見てたんだよね。そして・・」
自分「そういえば,あそこのショッピングモールにこの間モデルの○○が歩いていたんだよ」

というふうに相手が出した話題を,自分で奪っていくというパターンです。これは会話として最低のマナーです。

「人の話題をとって自分の話題にしない」

これは嫌われるもっとも大きな原因になります。なぜって?人は本質的に話したいんです。その話を奪われたら気分よくないからです。もうあいつに話しをするのはやめようということになります。

ですから2:8の法則を守るということは相手の話を促す相づち程度にしておこうということです。上の例では,

相手「昨日,○○のショッピングモールに行ってさー,○○の服を見てたんだよね。そして・・」
自分「お,それで?」

こうなると大体2:8の割合になるもんです。

思い出してみましょう。人の本質は「話したい」ということです。ということは人の話を聞きながら,自分の話をする準備をしていることが往々にしてあります。上の例では,ショッピングモールの話しを聞こうと思っていたけど,それで思い出した話しを聞いてもらいたい,といつの間にか,相手の欲求に自分の欲求をかぶせる形になっています。これはだめです。人の話を聞いていないことになります。

自分が話している時に,話しを持って行かれたらやっぱりいやですよね。ということで聞き上手を少し目指してみましょう。

最近,人の話を聞きながら,自分の話をしたいという気持ちになっていませんか?あるいは私の授業を聞いて,私語したくなったりしていませんか?(笑)
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2010年05月05日

人間関係がある理由

環境は人を左右させます。他人がいい就職先で働いているのを見たり聞いたりすると,うらやましかったりします。結局人は自分がどう人生を歩むかより,他人が自分の仕事をどう思うかという方が大事になったりするものです。

同じ他人といつも一緒にいると,他人が自分の人生の一部となってしまいます。するとその他人は自分を変えようとします。変えられないことができないとなるとイライラするようになります。例えば,この服はやめて欲しいと思っても,私はいいんだからと着続けます。その他人は私にいらいらするようになります。

反対に,いつも友だちと一緒にいると,その友だちを自分の都合のいいように扱おうとします。いわゆるパシリにつかいたい,自分の役立つように使いたいというように。

このように人は他人と一緒にいることによって,その他人がどのように生きるべきか,明確な考えを持っています。ああしてほしい,こうして欲しいというように。でも,自分の人生については,何も考えをもっていないようにふるまってしまいます。自分の生き方がどうあるべきかは意外に考えたりしません。

人とつきあうことによって自分を見失うということになってしまいます。

アルバイト先や職場でいやな上司にあったりします。毎日顔を会わせないといけません。心の中では「こいつドついたろか」と思うのですが,ただあきらめて上司の小言につきあいます。なぜこんなやつの下ではたらかないといけないんだろう,疑問に思います。

などなど,さまざまな周りの人間関係にとらわれて,私たちは自分を見失う結果になるのがオチです。

そもそもなんで人間関係があるんでしょう???

人間関係は自分の鏡になっています。自分が自分であることを認識するために他人があります。

自分を知るため

に人間関係があるということがポイントです。自分を失わすために人間関係があるのでもないし,悩ませるために人間関係があるんではありません。

あくまで

自分が何者であるか

を確認するために人間関係があるということです。大胆にいってしまうと,私たちが毎日過ごして接している人達は幻想であって,その幻想にまどわされるのではなく,その幻想は自分を映し出しているということなんですね。

電車の中で鼻くそほじるおっさんをみたとします。よし,人前で鼻くそはほじらないぞ,と自分で気づくことができます。バーゲンで髪を振り乱して化粧せずに一心不乱にセール品をあさっているおばさんを見たとします。年をとっても美しく優雅にいよう,と決意したりすることができます。

「人の振り見て我が振り直せ」

といいます。人の仕草や行動は,自分の仕草や行動を振り返る鏡でありお手本です。

とはいえ,親との関係がうまくいっていない,上司とうまくいかない,友達とうまくいかない,接しているとネガティブな感情ばかり浮かび上がってくるので,接触するのを避けたい,のが私たちの現実です。

人間関係の本質からいうと人との関係で生じる自分自身の感情こそが自分の成長の糧になるのですが,そこまで悟るのは無理としても,できるだけうまく人間関係を処理できればそれに越したことはありません。

ということで,次回から少しでも人間関係がうまくいくコツを考えてみましょう。
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2010年04月28日

ほんとは一人でもいいと思う

私たちの普段の生活で一番悩むのが親との関係,周りとの関係です。ただ学生時代は合わない人間をさけることができますが,アルバイト先や家族はある程度ガマンして付き合う人間関係です。中のいい友達にしても,好きになって付き合った彼氏とでも,結局は関係で悩むものなんですよね。ということで私たちの悩みは人間関係が大部分を占めているように思います。

となると私たちの環境の問題のうち人間関係が重要なポイントになります。もしこの人間関係がうまくいくようになると,それだけで生きるのが楽になります。

なぜ私たちは人間関係を持たないといけないんでしょう。別に一人で生きていけばいいと思うのですが。。

一人でいると友達いない人と思われるのがいやだから?
ただ単純に一人はいや?

でも人と付き合って疲れてしまう・・・一人でいれば人に振り回されずにすみますが,寂しい。人と一緒にいればいいこともあるけど辛い関係に悩まされることもある・・・

なかなかうまくいきませんね。

私たちは小さい頃から友達を大事にとか言われすぎたように思います。友達を作ろうと言われすぎたように思います。気もあまり合わない友達に,表面だけ合わせるのはつらいのに,合わせないといけないと思ってしまう。このような経験はみんなもっているように思います。

齋藤孝先生は,これを「友達いないと不安だ症候群」と名付けています(齋藤2009)。友達がいなくても大丈夫なことなのに,いないといけないと思いこんでしまう心理的な問題です。前の心理療法でみた「友達がいなければならない」という「過度の思いこみ」が不安を引き起こしています。

本当にそうでしょうか。

齋藤先生は強調しています。友達がいないときは,一人で自分を深める時なんだと。常に友達と一緒だと自分を見失うと。自分で自分を見つめる時間は重要です。ただなんとなく友達と一緒にいて,本当の自分を押さえ続けていると,ウルトラスーパー自分くんまでどこかにいってしまいます。

やはりたまには孤独を味合うことは必要なように思います。

私は大学に入学したあと,「大学で一生の友を作らなければならない」と言われ続けて悩みました。だってそれに値する友達に会いませんでした。失礼な言い方ですが,自分と人生を語れるような人に出会えませんでした。そんなとき,いろいろな話ができたのが高校時代の友人でした。結局,大学卒業して今でも連絡とりあう大学時代の友人っていうのは一人ぐらいのような気がします。

大学4年間は,一人でいることが多く,寂しく思ったり,友達をつくらなきゃとあせったりしました。友達を作らなければならないと思いこむこと自体,心理的な負担のように思います。

「友達を作らなければならない」という束縛から逃れられたのは留学でした。一人で考え,行動することがどうしても必要でした。逆に自分が自分自身の本当の声に耳を傾ける機会になったように思います。香港の留学で,勉強させられるのではなく,ほんとうに素直な気持ちで香港のことが知りたいと自分の欲求を知ることができました。帰国後も経済学や中国のことが知りたいという素直な気持ちで勉強できたんだと思います。自分自身の本当のやりたいことが何かはわからないけど,今は経済学が知りたい,香港や中国のことが知りたい,という欲求に気づけた結果が,今の仕事につながったのかもしれません。

やっぱりたまには自分ひとりで自分に向き合うことも必要なように思います。漠然と人と付き合って,振り回されるよりも自分自身を磨き深めることが重要です。「足下を掘れ,そこに泉あり。」です。大学は自分で科目を選択し,自分で卒論のテーマを決め,自分でアルバイトを決めます。この意味で大学時代は一人でいて自分に向き合うのに適しているのかもしれません。

人との出会いは重要ですが,意味もなく漫然と人に合わせるのはつらいだけです。ということで一人でいましょう,というのが今日のエントリの主題です(^^)/


<参考文献>
齋藤孝(2009)『友だちいないと不安だ症候群に効く授業。 (朝日文庫)』朝日新聞出版
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2010年04月21日

自分と環境

今まで,自分のウルトラスーパー自分くんに気づくこと,ウルトラスーパー自分くんになるために行動,言葉,思考,感情を変えていく方法を紹介してきました。

人生の仕組みは

自分←→環境

から成り立っており,自分が環境に対峙してどう振る舞うか,自分が変化してどのように環境を変えていくか,環境に負けて不本意な人生を感じ続けるか,つねに自分と環境の相互関係でできあがっていきます。

となると

ウルトラスーパー自分←→ウルトラスーパーな環境

を構築していくのがよりよい人生ということになります。

さて,問題は自分の人生がよくなるのは,自分が先?それとも環境が先?ということです。とある言葉で

「体曲がれば影斜めなり」

とあります。自分が曲がれば,環境も曲がっちゃうよ,ということです。前に紹介した『七つの習慣』のコヴィー博士は

自分の「影響の輪」を広げる

という言い方をしていました。自分が環境を支配していくということです。

といっても環境には二つあります。自分でコントロールできるもの,自分でコントロールできないものです。自分でコントロールできないものは,生老病死といった人間が根本から抱える問題です。自分や親や愛する人の病気や死,自分や家族の事故や障害,こういったものは自分でどうしようもできません。自分でコントロールできるのは,人間関係や自分の夢実現といったことです。簡単に言えば,生老病死以外は自分でコントロールできるもんだととらえていいのではないでしょうか。

これも何かの言葉でありました。

「自分で変えられる出来事は,変える勇気を,変えられない出来事は平静に受け入れる強さを持ちたい」

変えられないような出来事が起こると,人生とても不条理に感じます。なぜ自分だけこんな目に会うのか?人はあんなぬくぬく楽しく生きているのに,どうして自分だけが。。。。私が何をしたっていうのか。このように人生に対して疑問を投げかけます。

私たちの環境は,何かを知らせるためのアラームです。「きみきみ,ちょっとここ気づかんと人生損するよ」みたいな「お知らせ」です。

また,鏡でもあります。環境は自分を映し出す鏡です。鼻毛が出てるとか,寝癖で髪の毛がたってるとかは鏡がないとわかりません。変えるべきことや直すべきこと,学ぶべきことを環境が鏡となって,私たちを写し出しています。つまり環境は自分がどんな人間であるかを写し出しているといえるでしょう。

勝間和代さんの本のタイトルにありましたが

「起きていることはすべて正しい」

んだと思います。私たちの周りで起きている出来事は,すべてただの出来事です。受験に落ちた,彼氏彼女にふられた,うまいもうけ話にだまされた,あるいは極端な話,家族が病気になる,自分が事故に遭う,といったことでも,出来事です。この出来事をどう解釈し,意味づけていくのは自分なわけです。

野口嘉則さんは(たしか)『心眼力』で哲学者フランクルの言葉として

「自分が人生になぜと問うのではなく,人生が自分にどう生きるかを問うているのだ」

を紹介していました。

とはいえ,不条理な出来事に対して,こんなふうに達観はできません。だって人間ですもの(笑)

やはりコントロールできないことは平静に受け入れるように「努力します」(笑)ブログでは死とか事故とか病気とかはちょっと扱いにくいので,これからは、少し扱いやすいテーマ,人間関係について,考えたいと思います。人間関係はコントロールできますので。すこしでも人間関係がうまくいけばそれだけで人生生きるのが楽しくなります(^^)/

ご両親とうまくいかない、彼女と長く続かない、いまいち友人としっくりこない、バイト先、仕事先では必ずいやな人と会ってしまう、などなど人間関係に悩んでいる人、必読ですよるんるん
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2010年04月14日

嫉妬感を羨望にかえる

最後に嫉妬感についてみてみましょう。

嫉妬といえば,やはり男女間の感情の代表かもしれません。好きな彼が他の女の子と話している,キー!なんて感じになります。もちろん同姓でもありますよね。一番の仲良しだと思っている友人がある日別のところで別の友達と楽しそうに話しているのをみて,話し相手の友人を恨んだりします。

でももっと重要で危ないのは同性間で起こる嫉妬です。相手が(性格や容姿も含めて)持っているものに対しするうらやみとかねたみとかいった感情です。異性間の嫉妬は,往々にして二人の間の愛情を刺激したりしますので(笑)

この感情の基本的なものは

「あいつ,いい彼女を見つけやがって」
「あの子,ちょっとかわいいからって図にのってんじゃないわよ」
「あいつ,勉強できるって勘違いしてんじゃねぇ?」
「最近,痩せたなんて言ってるけど,不健康なのよねぇ」

といった発言の裏にある感情です。

なぜ嫉妬感はよくないのでしょうか。それは相手がもっているものに対し,自分も持とうという向上心に向かわず,相手が持っているものを奪うことによって,自分と同じレベルに落としてやろうという破壊的な感情だからです。

嫉妬は破壊的です。他人が自分より優れていることが許せない,他人が自分より多く持つことはありえない,といった気持ちが中心にあるので,他人を落とし入れよう,壊してやろうという感情につながっていきます。

もっているものに対する嫉妬はまだいいのかもしれません。他人が人格的にも優れているといった場合はおそろしい嫉妬になる可能性が大です。あることないことを人に言いふらして,相手が悪く思われることを期待してしまいます。

嫉妬の恐ろしいのは他にも自分は何も奪われていないのに,損をしていないのに相手に損を与えたいということです。この意味で嫉妬は攻撃的です。

歴史をみてみても,イエス・キリストにはユダという人がいましたし,釈迦にも提婆達多という人がいて,それぞれ裏切りや危害を加えたと言われています。この人達の本質は嫉妬感からの行動です。

嫉妬感を克服するのは羨望です。嫉妬は破壊的ですが,羨望は建設的です。そもそも相手が自分より優れているなんて思っているのは自分だけだったりします。人はそんなことを思っていなかったりするものです。どうしても自己中心的に考えてしまう人にこの傾向が多いように思います。

嫉妬の本質の一つは,自分が低く見られることに対する恐れや恐怖です。私たちはみんなそれ相応に処遇されたい,大事にされたいという気持ちを持っています。この恐れを自分で向き合うのが怖い場合,恐れや恐怖を隠して,相手にぶつけるという行為が嫉妬の動機になっています。

でもよく考えてみましょう。相手が人間的にも知識的にも優れているとしても,自分に何の危害が加えられるわけではありません。自分が恐れるべきは自分の恐怖感です。人を恐れる必要は何もありません。

嫉妬の本質のもう一つは,小さい頃に親から欲望を抑えることを要求されていた可能性があります。実は欲求を持つことに罪悪感を持っていて,欲求を満たしているように見える人が許せないということになります。前回の罪悪感の話とつながります。欲望を抑圧した結果として,相手の欲望を抑えようという補償行為が嫉妬といえそうです。

相手がうらやましいと思うのは自然な感情です。その感情をもっても大丈夫です。っていうか是非持ちましょう。そして自分も相手がもっているものを得たいんだという欲望に気づいてあげましょう。

相手をおとしめるのではなく,自分を高めましょう。羨望は嫉妬の裏にありますが,嫉妬の本性である自分の恐れと欲望の存在を見破れば羨望に変わります。

最近,うらやましいと思ったことはありませんか。ほんとは自分はどんな欲望をもっていたんでしょう?自分の欲望に素直になれますよ(*^_^*)
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2010年04月07日

罪悪感を感謝にかえる

今日は罪悪感を考えてみたいと思います。

どんなものを罪悪感というのでしょうか。例えば,自分がバイクを運転していたとします。よそ見していて小さい子をはねてしまい,怪我をさせてしまいました。その子の怪我は一生残るものとなりました。このときに,感じる感情が罪悪感です。また,電車の中で自分の前にお腹の大きな妊婦さんが立ちました。勇気がなくて席を譲れませんでした。先に席をおりた妊婦さんを見ると責められるような気がするので,寝たふりに集中します。このとき一瞬感じたのが罪悪感です。(この場合は罪悪感を感じないように自分をし向けていますが(>_<))

私たちは小さい頃のさまざまな体験から罪悪感をもっていきます。

小さい頃の欲求(ニーズ)に対し,親が攻撃をする場合,その欲求(ニーズ)を持つことに対して罪悪感を持つようになります。

お母さんに「あのおもちゃが欲しい,あのおもちゃ買って」ということを言ったとします。お母さんが「だめ,うちにはお金がないの」と強く,攻撃的に言いつづけると,物を欲しいということに対して罪悪感を持つようになります。

小さい頃,父親から性的いたずらをされた女の子は,ショックを通り越すと,自分が悪いと思ってしまいます。これも罪悪感です。自分の体に,性的魅力に罪悪感をもって,性に無気力になったり,逆に傷つけるために奔放になったりします。

家族の中で好きな人(例えばおばあちゃん)が亡くなったとします。好きなゆえに,わがままを聞いてくれなかったおばあちゃんに「おばあちゃん,きらい。死んでしまえばいいんだ」と発言して,そのままおばあちゃんがなくなった場合,自分があんなことを言ったから大好きなおばあちゃんがなくなったんだというふうに,子供は罪悪感をもったまま成長してしまいます。結果,他人とのコミュニケーションがうまく築けなくなるといったことが生じます。

罪悪感は,私たちの生活に忍び寄り,幸せになってはだめなんだという思いこみを,無意識に植え込んでいきます。

なぜなら罪をもった感覚に陥ると,その罪を補わなければならないと考えてしまうからです。

バイク事故で小さな子供に一生残る傷をつけたケースを考えてみましょう。社会的には事故を起こした人に対して過失致傷という犯罪として処理されます。罰金や懲役という償いにつながります。心でも同じで人は償わなければならないという考えにとらわれます。

物をもつことは悪いこと→償いとしての貧乏生活
いたずらをされる自分は悪い子→償いとして悪い自分
人に死ねという自分は悪い子→償いとしてコミュニケーションできない自分

などなど,罪悪の償いとしての行動を無意識にとってしまい,つらい,不幸な人生を歩んでしまうようになるわけです。

罪悪感を克服するのは「許(ゆる)し」です。小さい頃欲求(ニーズ)を満たそうと行動した自分を許すことです。

物をもつ自分は悪いわけじゃないよ,おもちゃが欲しかったのは当然なんだよ,
いたずらされたのは自分が悪いわけじゃないよ,
おばあちゃんがなくなったのは君が悪いわけじゃないんだよ

このように自分(も他人も)を許すことができれば,罪悪感を消していくことができます。

とはいえ,「許す」ということはなかなかできません。頭で許すというのと感情で許すというのはちょっと違うからです。しかも罪悪感はなかなか意識の上に出て来ません。常に無意識に隠れていて,見つかりそうになると,「罪悪感」を利用してさらに隠れようとします。

また「許す」=犠牲感という形になりやすいです。自分が許せばそれでいいんだ,ということになると前にみた犠牲感につながります。

結局,罪悪感を追放していくのは「感謝」が一番てっとりはやい方法になります。人に対して許せない場合(さきほどのいたずらのケースでは親を許すことは簡単ではありません。これは特殊ケースですので,専門のカウンセリングを受ける必要があります。),起きた「出来事」に対して受け入れていけることができればいいと思います。「人」に対する許しができなければ,「事」に対する受容が必要となってきます。出来事に対して「自分はその事件から何かを学ぶことが必要だったんだ」「その事件があるから今後成長できているんだ」ととらえて自らが意識的に感謝していければ,罪悪感の克服に役立ちます。

人にはなかなか感謝できません。人間ですからどうしようもないことです。むしろ発生した出来事は自分でコントロールできない,しょうがないことだったと考え,受け入れていきましょう。その出来事は何かあなたに気づいて欲しかったんだと思います。

あなたは罪悪感をもっていませんか?その罪悪感は小さい頃のどのような出来事から発生したんでしょう?その出来事はあなたが悪かったわけでもないし,誰もわるかったわけではないんです。
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2010年03月31日

犠牲感を使命感にかえる

私たちは欲求(ニーズ)をもっています。小さいころは,この欲求をすべて自由に表現できていたのですが,ご両親との関係や幼稚園,小学校を通じて,制限するようになってきます。

自分の欲求(ニーズ)と社会の欲求(ニーズ)とを合わせていくのは,人間として成長する上で重要な過程です。精神的に成熟している人は,自分自身が自分の欲求(ニーズ)を理解し,受け止めることができています。これがウルトラスーパー自分くんです。

自分自身がウルトラスーパー自分くんとして,自分の欲求(ニーズ)をどのように受け止めてあげるか,これは幼児期に親に甘えることができたかによります。

小さい頃,遊びたいという気持ちがあったけど,親にもうすぐごはんだから,遊んではだめ

と言われたとします。その時に,「遊びたいよ〜」と素直に親にだだをこねることができれば親に「甘え」ることができたことになります。ところが親がいらいらしている時などは,だだをこねることができません。親もだだにつきあう余裕がない場合,また自分も親に悪いなと感じる場合(これが次回の罪悪感につながります),欲求(ニーズ)を抑圧します。

これが繰り返されると,子供は成長の過程において自分の欲求(ニーズ)に気づかなくなってしまいます。こうなるとどのように自分の欲求(ニーズ)を親や周りに知らせようとするのでしょうか。

一つの戦略が,攻撃です。私は不当に扱われている,このように扱われるのは社会が,大人が悪いからだという考えに支配されていきます。常に責められている感情にさいなまれるので,それが気づかれないように周りに対し,攻撃的になることによって,今まで隠された欲求(ニーズ)を満たそうとします。例えば,成人式に問題を起こしたいう衝動をもつ新成人の方々は,抑圧された欲求を社会に認めてもらいたいという気持ちの現れになります。

もう一つの戦略が犠牲です。「私ががまんすればいいんだ。そうすれば世の中うまくいく」「私さえこんな目にあっておけばいいんだ」という卑屈な犠牲感を感じるようになります。実は,これは謙虚でもなんでもなく,自分自身の隠れた欲求(ニーズ)を周りの大人に,社会に気づいて欲しいという卑屈な態度の表れです。自分が犠牲になっているんだということを人に知らせていこうという戦略を採用するっことによって,自分のゆがんだ欲求(ニーズ)を満たしています。

この戦略は攻撃より複雑です。攻撃は,大人になっても甘えを満たしてくれる先輩や上司に出会うことができれば,徐々に落ち着いていきます。

ところが犠牲感は,周りが気づいてくれないと,どんどん強化されていきます。また周りもこのような人とつきあうのは面倒だと無意識に感じるので,あえて相手の犠牲感につき合うことはしません。

こうして犠牲感は,自分をやる気のない自分へと変貌させていくのです。

犠牲感を克服する方法は,使命感だと思います。自分という枠を越えて,相手にも貢献していこう,相手を思いやっていこう,自分はこの場で,社会で,自分の使命を果たすんだという強い決意をもつことです。

例えば,ゼミでいつも先生から連絡とか頼まれるんだよな〜,いやだなぁ,面倒だな〜,なんで俺ばっかりなのかなぁ〜と犠牲感を感じたとします。これを乗り越えるのは,俺がやらなきゃ誰がやるんだ,先生の役に立てるんじゃないか,これでゼミがもりあがるんじゃないか,といった人への貢献という使命感が犠牲感を克服することができます。

仕事でも同じです。いつも上司から嫌な仕事ばかりを頼まれていると感じている人は,自分でなければならない理由があるはずだ,自分だからこそこの仕事で会社に貢献できるんだという使命感を持つことが大事です。

犠牲感は自分にとらわれますが,使命感は人にとらわれるということです。自分だけでうじうじする犠牲感とはつきあわずに,人が喜ぶ使命感にはまると自分が成長できます。

最近,犠牲感を感じましたか?その犠牲感をみつめてみましょう。小さい頃どんな欲求(ニーズ)が満たされなかったから,そう感じるようになったんでしょう?満たされなかった小さい頃の自分の欲求を今の自分が満たしてあげていることを想像してみるのもいいかもしれません。
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2010年03月24日

気をつけるべき感情

今まで,論理療法の方法を紹介しながら,自分の間違った思いこみによって辛くなるのをなくしていこうとしました。

今までに形成されてきた非合理な「思考」→つらい「感情」



合理的な「思考」→いい「感情」

に書き換えることを考えてきたわけです。これにより生きるのにずいぶん楽になりますし,自分らしい自分,ウルトラスーパーな自分になってこれます。

思考を変える話から,感情について少し考えていきたいと思います。というのもときには思考と感情をわけて考えることが難しいからです。

とくにウルトラスーパー自分くんになる上で,気をつけるべき感情を紹介していきましょう。

勝間和代さんは,仏教の三毒として,妬む,怒る,愚痴るをあげられ,それを追い出していくと,人生が好転したようなことが述べられています(勝間2008あるいはここ)。なお,仏教の三毒のとらえ方が違うという批判が多くあるようで(例えば紹介した勝間さんのブログエントリの一番下コメント参照),仏教学的に正しいかどうかはさておき,よりよい自分として生きていくための知恵としては重要だと思います。

さて本題に戻って,ウルトラスーパー自分くんとして気をつけるべき感情は何でしょうか。私は以下の3つについて注意していくべきではと感じています。

・犠牲感
・罪悪感
・嫉妬感

これらを自分から追い出すことによってウルトラスーパー自分くんになれます。勝間式ならぬ岡本式三毒追放です(^^)/(あ,ここでの三毒は仏教とはまったく関係ありません(>_<))


犠牲感とは,何かをやってるとなぜ自分だけがこんな目にあっているのかという考えです。やればやるほど,あるいは自分だけが損しているのはないかという考えです。これは,自分を無気力にしていく恐ろしい考えです。

罪悪感とは,何かをやると自分が悪いんではないかと感じてしまう感情です。自分を常に責めてしまう考えです。これは,自分の成長を止めてしまう怖い考えです。

嫉妬感とは,人の持っているものにねたみをもつ考えです。人がすべてうらやましく思えて自分を卑下することになる考えです。これは,自分の欲望を抑圧する考えです。

次回から「ウルトラスーパー自分くん」になるのを妨げるこの考えを見ていきます。これに気をつけるだけでも人生うまくいきます♪

<参考文献>
勝間和代(2008)『起きていることはすべて正しい―運を戦略的につかむ勝間式4つの技術』ダイヤモンド社
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2010年03月17日

自分の「文章記述」を書き換える

「ねばならない」「すべき」という思考は,社会生活を送る私たちにとってどうしても植え付けられやすい思いこみです。これはほとんど家庭環境によって決まってくるともいえるかもしれません。

親が過度に絡みます(あるいは無関心です)。→「どうせ」親と相談しても意味がない。

親の期待に添おうとしました。→親に気に入られる行動をしなければならない。

親のエゴで心がぼろぼろです。→自分を守るためには,大人の意見を無視しなければならない。

などなどです。人間関係は親との関係によって決まることが多いのですが,これはまた別の機会に述べるとして,親との関係が自分の非合理的な思いこみ(イラショナル・ビリーフ)を作ってきます。

もちろん学校や社会の,いわゆる「常識」というものがこれに拍車をかけます。勉強しなければならない,親のいうことを聞かないといけない,などなどは「過度に一般化」されないので,問題ないのですが,

「人に嫌われないようにしないといけない」
「お金がなければ幸せになれない」
「自分の思い通りにいかなければならない」

などは,どの場面でも利用されうる非合理的な思いこみです。自分の悩みが起きる原因となる非合理的思考をみつける,これが論理療法の第一歩でした。

この非合理的思考を,上記のような「文章記述」として取り出すことが必要です。

人の誘いを断れない,という悩みには

「断りによって人を傷つけてはならない」

というむちゃくちゃな文章記述があるのかもしれません。あるいは

「困っている人を全員助けなければならない」(全員というのが過度の一般化)

という仏様的(!?)な思いこみがあって,このような文章記述が取り出せるのかもしれません。

非合理的思考(イラショナル・ビリーフ)を文章記述として自分でノートに書き出すことができれば,論理療法の第一歩が完了します。

第二歩目が,もう一人の自分を用意して,その文章記述を「ほんとうにそうか」と疑問を出します。自分の中でイラショナル・ビリーフをもつ自分,それがほんとうかと疑う自分という二人の自分を用意します。

とくに文章記述はノートに書き出しているわけですから,以下のように論理で自分の思いこみを論破していきます。ここではイラショナル・ビリーフをもつ自分をB,それを論破する自分をAとします。

B「困っている人全員を助けなければならない。」
A「本当にそうか?」
B「全員というのは言い過ぎですが,一人で行けないから一緒に行ってくれという彼の誘いは断ってはだめです。」
A「じゃぁ断らずに行ってこいよ」
B「でも一緒に行ってもあの映画は僕の趣味じゃないんです」
A「じゃぁ断れよ」
B「それはできません」
A「なんで?」
B「彼がかわいそうです」
A「じゃぁ行けよ」
B「だから〜そうじゃないんです。自分としては行きたくない,だけど彼が困っているのを助けないとかわいそうだと悩んでいるんじゃないですか(怒)」
A「断ったら彼は傷つくのか?」
B「彼はああ見えても繊細なんです。」
A「ほんとうに?例えば事例を言ってみて」
B「今すぐには思い出せないけど,繊細なんです。」
A「繊細な人は断られたら自殺するの?」
B「それは極端ですが,そこそこは落ち込みますよ。」
A「そこそこだったら立ち直れるよね?」
B「でも彼は僕を嫌いになるかもしれません」
A「繊細な彼は友達を失うのはもっと怖いでしょ。」
 :
 :
と疑っていきます。このようにノートに書き出した文章記述に対して自分でもう一人の自分と会話していくと意外に

「あれ?,断り方だけ気をつけれて,今度困ったことがあれば助けてあげればいいんだ」

と書き換え可能かもしれません。このように自分の不合理な文章記述を書き換えていくと悩みが少しだけ解決していきます。

自分の不合理な「ねばならない」を見つけたら,それを文章記述としてノートに書き出してみませんか?それにつっこんでいくだけで新たな文章記述が見つかるかもしれませんよ。

えっ?ゼミのペーパー書くことを考えるとプレッシャーで眠れない?「ペーパーを書かなければならない」という文章記述を「いつかペーパーを書こう」に置き換えるって?

それはだめです(-_-)
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2010年03月10日

「ねばならない」「べき」思考

私たちは,自由な意志をもった人間として生まれてきています。たくさんの可能性をもって,自分の好きなことをやりながら,人を愛し生きてきています。これがウルトラスーパー自分くんなのですが,意外にこのように生きていけないのが私たちの世界です。

幼稚園の子供の行事に行くと,歌が好きな子,工作が好きな子,一人でじっとするのが好きな子,お友達と仲良くするのが上手な子,さまざまな子がいます。彼らは本当に自分の本能に従って好きなことを楽しんでやっています。

とはいえ,幼稚園では団体行動を覚えるように指導されます。社会で生きる上で人との協調は欠かせません。幼稚園では,みんなで運動会でダンスができるように,発表会ではお遊戯ができるように訓練されていきます。

自由意思が社会協調で制約されるようになってきます。

私たちも小さいころを思い出すとそうですが,いろいろなことを覚えます。または覚えるように強制(笑)されてきます。

人前でおならをしてはいけません。
咳をするときは口を押さえましょう。

といった生活上の約束事から

いい大学にいかなければいい就職はできません。
いいお友達と付き合うと自分もよくなりますよ。

などなど社会的な常識といわれるものを強制されてきます。この中で私たちは,「〜しないといけない」という「ねばならない」「すべき」という思考が植えられていきます。。

この「ねばならない」「すべき」思考は,よく「過度の一般化」が行われ,私たちを苦しめる思考になることが多くなります。

二つ例をみましょう。

家族から学校から,偏差値の高い学校に入学すれば一流企業に就職できます,と言い続けられたとしましょう。すると,

「いい学校に入らないと,いい就職ができない」
  ↓
「いい就職するためにはいい学校に入学しなければならない」

という思いこみになります。これが過度に強い思いこみなると非合理な思考(イラショナルビリーフ)に変わっていきます。ですので,

第一志望の大学に落ちる(A)
  ↓
「いい就職ができない」(B)
  ↓
私はもう人生おしまいだ(C)

となります。でも本当にそうでしょうか?第一志望以外だといい就職できないのでしょうか?一流企業への就職は人生で素晴らしいことなのでしょうか?一度この思考を疑ってみる必要があります。

次に,人の目が気になって,誘われると断れない,自分の意見があるんだけど,それを言うと相手が困るんじゃないかなと思って,いろんな面で断れない人がいると思います。断れなかったばっかりに友達と無駄な時間を過ごしてしまう,あるいはその友達の悪い面ばかり見て,相手がきらいになってしまうということがあります。

誘われる(A)
 ↓
「相手を傷つけてはならない」「人の誘いに合わせるべきだ」(B)
 ↓
不愉快な気持ちでその人と過ごす(C)

となっているわけです。普通に断ることがそんなに相手が傷つくことでしょうか?自分が人を誘って断られたからといって人生最悪だ〜とまで落ち込むものでしょうか?すべての誘いに自分が応じきれるでしょうか?絶対こうしなければならない,という思考は自分を苦しめている可能性が高いのです。

このような思考は,完璧主義,潔癖主義の人に多いようです。なんでもきちんとしようという几帳面な人は,この「ねばならない」「べき」思考に注意しましょう。

最近のいやな気分はどういうことがありましたか?その時の「ねばならない」「すべき」は何だったんでしょう?

私も授業前に「完璧な講義をして,出席者全員が満足しなければならない」という思考に陥って,プレッシャーに苦しむことがあります。本当にそうか?と自分に問いかけ,最近は8割の学生さんが満足すれば,講義は成功だと思考を書き換えて,楽になりました(^_-)
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2010年03月03日

「どうせ」という思い込みをとろう

私たちの行動,言葉のはしばしに現れる思考があります。その一つが「どうせ」という言葉で示される思考です。実際に,言葉に出してしまう人いるでしょう。

「どうせ」のあとにはどのような言葉がくるでしょうか。たぶん

「どうせ私がやらなくても,誰かやってくれるでしょう。」
「どうせ準備しても,うまくいかないでしょう。」
「どうせ彼はメールをくれない。」
「どうせ両親に話してもわかってくれないよ。」

というようなことです。「どうせ」という言葉は,自分に対しても他人に対しても「可能性」を奪う思考につながります。

過去今までいろいろなことを体験してきます。小さい頃お手伝いをしても親から褒められることがなかった,漢字を覚えたと思ったのに,テストでうまくできなかった,メールをしてもしても返事がこない,進路のこと,バイトのこと,彼氏彼女のことなどを親と相談しても,だめだ,こうだと押しつけられた,などなどいろいろな過去のうまくいかなかったという経験が「どうせ」という思考を生み出していきます。

でもちょっと考えてみましょう。過去うまくいかなかったからといって,本当に将来までもうまくいかないと言えるのでしょうか。かけっこで1年生,2年生,3年生とビリでした。4年生も本当にビリになるのでしょうか?過去の体験を将来にも広げて考えることを,「過度の一般化(Over Generalization)」といいます。

論理療法では,過去の経験から学んで得た内容を,「過度に」今後の思考に反映させていいのかと問います。
かけっこで今までビリだったということを考えてみましょう。

「3年生までビリだったからといって本当に4年生でもビリになりますか?」
「少なくともビリになる確率は高いです。3年と4年ではクラス替えもありませんでしたし,かけっこの順番や走る組は去年と同じだと思います。」
「ビリになる確率は100%ですか?病気で同じ走る組の人が欠席したら,走る人が変わりませんか?もしかしたら転校生が来たり,誰か引越ししたりして走る組のメンバー組み合わせが変わることはありませんか?」
「走る組のメンバーが変わる可能性は低いんです。ビリになる確率は100%じゃないかもしれませんが,それでもビリになる可能性が高いんです。」
「速く走る人のまねをしてみましたか?速い人はどうして速いのか調べてみましたか?」
「いいです(逆切れ気味に),面倒くさいんです!」

このように論理的に質問していくと,「どうせ」と思っていた思考は,絶対的な真理ではないことに気がつきます。このケースでいえば,ビリにならない可能性の方がどんどん高くなっていきます。

このように過去の経験を「過度に一般化」した思考を,論理で打ち破り,新しい思考を取り入れてみようとするのが論理療法です。

先ほどの例で最後の「逆切れ」発言を変えてみましょう。

「そうか,少し速く走る方法を学んでみればいいのかもしれない。体育の先生に聞くのも一つの方法かも。お父さんも小さい頃走るの速かったといってたんだからお父さんに聞くのも一つかも」

と自分には可能性があるという思い込みに書き換えることができます。「どうせ」という可能性がなくなる思い込みを,可能性はあるんだよという思考に書き換える,これにより自分の生き方が広がってきます。

詳しくは参考文献を読んでもらうとして,最近,「どうせ」というような思考が自分の中にありませんでしたか?
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2010年02月24日

ABCで考える

もう少し論理療法の考えを見てみましょう。

仕事(試験)で失敗して,落ち込んだとします。

仕事で失敗する(出来事:A Activating Event)

落ち込む(結果:C Consequence)

というAという出来事とCという結果に分解されます。普段私たちはこのような毎日を送っています。気になっている彼からメールが来て(A),うれしくなった(C),とか,母親が「あんたバイトばっかりして,学校いってんの!?」と言われて(A),腹がたった(C),というふうに毎日出来事→結果ということが起きています。

このAとCの間に,私たちが無意識な「思いこみ」があると考えるのが論理療法です。

失敗して落ち込んで,「もうだめだ。私はできない。」と考える人がいる一方で,「今回は失敗したけど,ここが問題だったから次回気をつけよう」と考える人がいます。成功本には,ポジティブ思考だ,なんてむやみに人をもり立てようとしますが,ポジティブにいかないことが多々あります。その理由がこのAとCの間にある,何か目に見えない,そして自分でも意識していない「思いこみ」が隠れているのです。

つまり

仕事で失敗する(出来事:A Activating Event)

思いこみ(ビリーフ:B Belief)

落ち込む(結果:C Consequence)

という構造を意識してみましょうというのが論理療法の提案です。良くない出来事と感情の間に,その出来事に対する受け止め方,考え方というのがあり,それが感情の反応の違いをもたらしているのです。

さて,仕事で失敗して,「俺はもうだめだ」と落ち込む人にはどんな「思いこみ(ビリーフ)」が隠れていたのでしょう。

「こんな仕事で失敗してはいけない。こんな仕事で失敗するヤツはだめだ。」

という思いこみ(ビリーフ)が隠れています。もし

「仕事で失敗することもあるさ。失敗したら修正して次回に生かしてでっかいことをやればいい。」

という思いこみ(ビリーフ)をもっている人であれば,失敗しても前向きに生きていけます。

論理療法では,この「思いこみ」を見つければ,ほぼ半分セラピーは完了です。この「思いこみ」を自分の中で対話し,思いこみの間違いを指摘しながら,思いこみを「書き換え」していけば,楽に生きられるようになります。

パソコンでいえば,むちゃくちゃ不合理なOSを,合理的なOSに変更して,パフォーマンスをよくしようという感じでしょうか。

自分がおちいりやすい感情を見つけてみましょう。自分の思考のクセをみつけるヒントになります。
posted by oice at 08:00| Comment(0) | 深イイ話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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